My Fair ブロ長。

2011-2012の2年間は青年部で少し特別な年。
永年、青年部LOVEで情熱的に活躍してきた溝渕木綿子さんの青年部最後の2年であり、その溝渕さん率いる関東第一ブロックで、幹事長を仰せつかって、一緒に走って走って、ゴールテープを切るという誓いを立てた2年です。
「ありがとうとやってみようにあふれた青年部」を掲げた以上は、いろんな「やってみよう」が次々やってきます。
でも、いろいろやっているようで、全ては一つなのだと思うこのごろです。
きっかけと感動に溢れたこの青年部という『磁場』を、東京を中心に『守る』という役割です。

「守る」…ってどういうことだろう?
存在を継続させるってことかしら。
カタチがあるものは「維持」するのが守ることになる。
でもカタチが存在ないものは、毎年生み出すことで存在を継続させることになる。

ところで、存在を継続させるために心身を集中することっていうと、
何かを「守る」は、何かを「愛する」にとてもよく似ていますね。
働きは同じ。でも、「守る」と「愛する」は想いが違う。

お役をスマートにこなすスターは、その時代、時代が常に生み出してきました。みんなそれぞれに青年部の象徴でした。人物像は見えても、青年部にどんな愛情をどれだけ注ぎこんだかは、ちょっと見分けにくい。時間が経って見えてくるものなのかも。
注がれた愛情の痕跡は、使い込んだ茶碗からにじみ出るなんとも言えない「味」と同じように、数値にできる評価基準にしにくいけれど、最終的に、決定的にそのものの価値を決める要素、「好き」に通じる。
もちろんそれは、「私自身にとっての価値」でしかない。

でも、お茶をやるということは、自分の「好き」をどこまでも追及することでしょう?
「好き」か「嫌い」か。
社会ではこれをすぐに「二の次」にしてしまうけど、そこにこだわる、しっかり感じとるのがお茶だと思う。

なぜなら、「好き」を追求することは、「自分自身」を突き詰めていくことだから。
自分自身を知ろうとすることは、「禅」ですよね。
自分というものの答えは、自分の中にあって、死角にある。でも目の前に見える全ての物の中に、「自分」を映す鏡はあるということ…。

何かワクワクする。何か気にかかる。何か手が出てしまう。何か通じ合ってしまう。何か残念に思ってしまう。何か怒りを感じ、そしてその都度、許してしまう。
それは「好き」の予感でしょう。

私は純粋なものが「好き」みたい。
真っ白なもの、透明なもの、透けて向こうが見えるもの、空気との境をようやく構成して存在しているような震えるもの、焔のようにゆらぐ意志を常に持っているもの、つまり生きているもの…、そう、不完全で、無常のもの。

きっと溝渕さんの心には、私が好きな要素がいっぱい詰まっているのだと思う。

My fair ブロ長の想いは、素直にブロック長ブログに綴られています。
こんなにも、素直に表現された青年部への愛を、私は文字で見たことがありません。いろんな想いがあっていい青年部。でもたった一個だって、その「想い」が明歴々露堂々と表現されたサイトはありません。だからこそ必見、必読なのです。

http://kantou1.com/modules/weblogD32/details.php?blog_id=110
by soukou-suzuki | 2011-05-17 00:31 | この人!
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