自分の中の「世界」

自分の中の「世界」_c0049825_2225878.jpg
テロップのように予定がせりあがってくるのを追って暮らしている。
とにかく、余白がない。

明日は広報誌「青新」の取材と横浜へ。
明後日は加賀町で行事。3人の講師を招いて一日大学の開校で司会。
来週末は畠山記念館の茶会へ来年の下見をかねてお呼ばれし、終われば銀茶会へ。

再来週は1日・2日で「炉開(ろびらき)」に招かれる。
ろ開は茶人のお正月と言われます。「お玄猪(おげんちょ)」の話を、先日のゼミで拝聴したばかりで新鮮。京都の護王神社についても知らなかったことを面白く教えていただいた。
3日は上野毛で洗心会の稽古&お汁粉。

7日は世田谷句会。
本当ならパリに呈茶にいく予定だった週。早春にそう思い立ったときは、まだ手帳に余白があった…。しかし夏を超えるころから、空いていない日付に上書きを重ねるようになる。
ここから年末までは、決まった予定を何パーセントこなせるか自分との戦いだったりする。

来年の話をすると鬼が笑った時代はよかった。
今は来年の話をしないと周囲が鬼になっちゃう。

秋になると、翌年の日付が次々決まっていく。今まではメモ程度ですんでいた2011年が、日付ごとに複数の予定が入るようになると、手帳のリフィルなしでは文字通り話にならない。
なのに買いにいく時間がないまま予定が追いかけてくる…。ああ、もう書くところがないのに。


1月5日仕事はじめ。
1月6日は消防出初式茶会。
1月8日は初句座。
1月9日は初釜。
1月10日は洗心会初釜……合間を埋めるように仕事へいく。手帳の余白は、実は「仕事」だ。仕事の中身はPCのスケジュールに入っている。二つを重ねると、一つになるのではなく、二重に重なってしまうところが多発している。やはり仕事とそれ以外(必ずしもプライベートではない)を分けるのは、人格を分けるのと同じで無理がある。

それから初茶会、初稽古…、そうそう、この家での初正月です。日本のお正月、したいけどなぁ。2日は一般参賀へと散歩しましょうか。あ、忙しくしている?いえいえ、本当に無理はしないつもりです。私の容量を知っている誰かが、いつもちょうどよく、「大盛り」くらいで予定を盛り付けていってくれる。案外、予定同士が摩擦や粘着性を持って手と手をつなぎ合うから、ぽろりとこぼれたりしない…。本当にご飯みたい。(笑)

忙中にも閑がある。むしろ忙中にしか見いだせない「閑」がある。この「閑」こそ、刹那であるのに永遠を感じるひととき、壺中に在る人生。
一秒一秒を自分の体で感じる。
自分そのものを感じる。
生きている時間を刻む。

行事をご一緒できる時間も貴いけれど、この「閑」を一緒に過ごせる人もこの上なく貴い。
閑の時間の貴さも、「美味しさ」や「美しさ」「興奮」と同じで、共感すれば増幅する。
でも分かち合わずに、倍増させずに、一を、一のまま、一人で味わうのもまた至福。

一人になると、私はなぜか全人類を感じる。
暗闇にあれば温度や風を感じるように、目の前に人がいなければ、地球上のすべての人々を「今」という時の中に一緒にいると感じる。
時間を忘れれば、過去も未来もつながっているのを感じる。
同じ「意思」という海の中に感じる。

静けさに包まれると、ざわめきも息吹も躍動する世界のすべてが、実は自分の内側にあることを感じる。内側とか外側とか、個とか、自他とか、すべて同義語だったことに気付く。

日常にもどると、夢から覚めたように世界は個々に独立し、分離し、人と自分も個別に分かれる。あれは夢なのか妄想なのか…でも、不思議と何にも勝る「実感」がある。

そういう時間が、きっとこの古手帳にも、来年の手帳にも、目には見えない余白にしっかり刻まれているのでしょう。
by soukou-suzuki | 2010-10-22 22:10 | 計画中
<< 懺悔。 別冊スプーン >>