光のつくる景色を影といいます

光のつくる景色を影といいます_c0049825_028962.jpg「影」という字は、光によって映し出された景色のことを言うのだそうです。景色の「景」に、日光が差し込んでいる象形文字なのね。
陰は、陽のあたらない部分。つまり影は陽の光のことでもあるのですね。
影のある人と、陰のある人では、大違いです。陰は、影(光がつくる景色)の一部分ですね。写真は、十一月の末に、光と影の関係を考えながら古民家を見ていた、ある小春日和の正午の記憶です。

光のつくる景色を影といいます_c0049825_0285643.jpg世田谷句会 12月 兼題「冬麗(ふゆうらら)」の結果

◎ 何もかも微笑み交はす冬麗
  ひかり

主宰特選でした。社会が殺伐としていても、不景気でも、体調が悪くても、心にくったくがあっても・・・、極楽俳句をひたすら詠んでいきたいです。






光のつくる景色を影といいます_c0049825_0291927.jpg◎燦々と木の葉言の葉冬麗
   ひかり

主宰特選でした。靖子選も。
療養中は、木の葉の輝きがまぶしてくて、人々の言葉の一つ一つがありがたくて、みんな光を放っていました。人の心は、木の葉一枚、言葉ひとつで、洗われもし、暖められもし、輝きもします。




光のつくる景色を影といいます_c0049825_0293363.jpg○討入も裁判もなく冬麗
  ひかり

主宰普通選でした。他に、壮午さん、靖子さん、睦久さん選に。
弁護士である大高主宰の句だと思う方が多かった様子。冬日に暖められている間は、争いごとや社会の複雑さゆえに感じる矛盾も、かなた遠くに思えます。時に戦いは必要かも知れませんが、それ以上に必要な安息と平和。その一時を大切に味わっておきたい。俳句に残すのは感謝の気持ちです。


光のつくる景色を影といいます_c0049825_0295667.jpg公園のベンチS席冬麗
   ひかり

美奈子さん、道子さん、靖子さん、静さんの選に入りました。
人生や生活の中に、見落としてしまいそうな「S席」や、エンターテイメントがある・・・。そういう小さなライブに気づける人でありたい。お茶や俳句は、感謝の種に気づく力をつけてくれる大切なレッスン。


光のつくる景色を影といいます_c0049825_0302839.jpg庭草履揃へたくなる冬麗
  ひかり


道子さん、静さん選に。
我が家に庭はありません。テラスに出るためのサンダルが置いてあるだけ・・・。
茶室や庭園に向けて、庭草履に誘われることがあります。揃えておいてある庭草履は、インビテーション・チケットです。誘われてみない手はありません。



光のつくる景色を影といいます_c0049825_031188.jpg懐かれてこの子どこの子冬麗
   ひかり

知らない子に妙に懐かれてしまい、話を繋ぎつつも、「ところで、この子、何処の子?」と不思議に思うことがときどきあります。パリのオルセー美術館では、印象派の部屋で、金髪の小さな女の子が、「ママーン!」と言って飛びついてきたことがありました。産み落とした覚えはありません。戸惑ったけれど、ふんわりした衝撃が心地よくて、ぎゅっと抱きしめ返したくなりました。


光のつくる景色を影といいます_c0049825_0315632.jpg作句の冴えなかった日でも、句会に出れば、「今日の一句」に出会えます。他人様が作った句でも、ストレートに心に届く十七文字に出会い、気持のベクトルをひょいと変えてくれたり、視野をぐっと広げてくれたり、胸にすぅっと一陣の風を送り込んでくれたりする。
「座の文学」って、ぶつかり合って、磨かれるのですね。

感銘を受けた句を紹介します。(作者・敬称略)

残る日を悔ひなく生きん十二月 (静)
走り根のスクラム組みし冬木立 (睦久)
先ず越へし平均寿命冬麗 (凛風)
学生に混じり聴講帰り花   (壮午)
赤き薔薇供へて雪の墓静寂  (道子)
古暦喜怒哀楽を鏤めて  (靖子)
黄落や犬しゃなしゃなとお洒落して (靖子)
冬麗眉間眩しき野点席 (靖子)

光のつくる景色を影といいます_c0049825_0323736.jpg俳句は断定の文学、言い切ってこそ、です。
短歌は、最後が七、七、と余韻を残す散文調。
どちらもよさがあるけれど、俳句は「言い切り」が大事ゆえ、潔さをもって生きていなくては、名句とはならない。そこに厳しさを感じます。





光のつくる景色を影といいます_c0049825_033112.jpg詩のモチベーション、「詩因」を何処から受けるかが大事だと主宰の言。十七文字に、何処まで真剣に向かえるか、何処まで覚悟したかは、おのずと句に現れてしまうのでしょうね。









光のつくる景色を影といいます_c0049825_0342169.jpg「俳句は人なり」
何に心動かされて、何を削ぎ落として生きていくか。確かに、作句は、生き方に通じます。
自分が見えてくるのも俳句の面白く、恐いところです。
柊の葉の、固くて痛そうな棘とげしい形も、冬日を受けてやわらかく光り、「あたたか色」をしていました。







光のつくる景色を影といいます_c0049825_035932.jpg桜紅葉が、風に揺れる度、「いま、旅立とうか、どうしようか・・・」と、迷ったように首を振ります。
奇麗やなぁ~。
と口を開けたまま見上げ、首が痛くなり、私も桜紅葉のマネをして首を振ります。
見上げると、次の風を待っている桜紅葉とまた目が合います。
奇麗やなぁ~。
以下、繰り返し。





光のつくる景色を影といいます_c0049825_0362191.jpg目を開けば美しいものに出会える。そにあっても、観なければないも同じ。「美」だけなじゃい。「ありがたみ」もそうだし、「嘘」も。

自分の中にある孤独もそう。
見つめなければ気づかないで生きていける。
見つめて、実感して、味わって生きることもできる。
隠し味程度にそこはかとなく加味しておきたい。
どろどろの孤独味はしつこいし、胃にもたれる。
でも、これがないと、「こく」が出ない。


光のつくる景色を影といいます_c0049825_0363518.jpg強くなりたければ、弱い自分を知って、受け入れること。救いなどないと、分ること。
強い自分が嫌なら投げ出してしまうこと。徹底的に自分のエゴに負けてしまうこと。
反対のことを言っているようで、どちらも同じこと。
今の自分に、素直に反応して、感じること。強いとか弱いとかは、勝手に判断している外野の価値でしかない。自分=どうしようもないもの。自分に降伏してしまえば、征服できる。
by soukou-suzuki | 2008-12-07 00:44 | 散歩マニア
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