千宗守宗匠(武者小路千家お家元)と

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日本オペレッタ協会の寺崎芸術監督夫人にお誘いを受け、本田財団の定期勉強会(講演会)に初めて連れていっていただきました。仕事を終え、薄暮の濠沿いをパレスホテルへと徒歩で15分。心地よい風に吹かれて気持ちよい散歩でした。
講演者は、武者小路千家の当代お家元で、財)官休庵の理事長である千宗守(せんそうしゅ)宗匠です。初めてだし、お茶の話だし、期待は高まります。
約一時間強の中で、「茶」の日本への伝来から、茶の湯の成り立ち、千利休と歴史の接点、そして茶の湯の根底にある社会的意義まで、バランスよく興味深く、教えていただきました。またそのお話のテンポのよさは、エンターテイメントに昇華された「おもてなし」をいただいた気分でした。編集されたドキュメンタリー番組を1本見たような、あるいは茶事を経験した時のような、深い物語性を感じる一時間でした。お話が巧いということは、なんと多くの人の人生を変えることでしょう!
さて、「茶」の木は禅宗とともに中国から入り、鎌倉時代に禅宗の伝播とあわせて広がっていきました。京都より以前に先ず鎌倉で定着したのです。禅宗では、坐禅をします。坐禅の時間は、一本のお香が尽きる時間で計っていました。抹茶は、坐禅と坐禅の間(学校で言えば休憩時間、舞台で言えば幕間かしら)に、次の坐禅で眠ってしまわないよう、「覚醒するため」に飲用しました。
坐禅の目的は「悟り」を得ることです。禅宗は当時最もモダンな新興宗教で、坐禅の合間には上下僧侶のわけ隔てなく平面に並んで座り、座談会のように先輩僧侶の悟りを聞き、自分の考えを話し・・・つまりそれまでの日本社会にはなかった「平等」と「ディスカッション」という形式を生みだしたことに意義があったそうです。抹茶を喫しながらお互いが一人の人間として、精神世界の話をする・・・これが茶道の原型なのですね。形式は進化しても、目的は、覚醒し、人からも悟りのヒントを得ることだった。(その出発点を、今日の私も大事にしよう~と、話を聞きながら思いました。思えばお茶は、私にとっても常に「気づき」のきっかけをくれる場でした。)
やがて坐禅とともに茶の湯は京へ移り、政治と宗教の潤滑油にもなり、さらに自由都市堺の経済力(武器)と、武士の軍事力との掛け橋となって、歴史を影で動かす重要なサロンの役割を果たすまでに盛隆しました。信長時代には、昨日まで「人の首を取ってなんぼ」「虎を捕まえてなんぼ」だった荒くれ武士たちの教養を即席で磨くのに都合よいカリキュラムだったそうです。軍需産業のメッカであった堺の豪商の財力・知力に対峙して、「話し合いでの協議」や「駆け引き」を対等に行うためのネゴシエーションの場に、総合文化である茶の湯が大いに役立ったのです。
しかし軍需産業ではなく「とと屋」だった千利休が、秀吉となぜあれほどに結びついたのか・・・。実は彼らは、こうした談合サロンの「末席」に並ぶ者同志、つまり気心しれた茶友だったという訳です。(緊張する会議の末席同士か・・・なるほど、「立場の違い」よりむしろ「立場の酷似」を感じるパターンかも知れませんね。解る、解る!会議がはねたら一緒に飲みに言って、意気投合して愚痴ちゃうかも。^o^;)
信長が亡き後(天王山以後)、武士代表となった秀吉と堺が協議する際、商人側の代表選手に選ばれたのが、以前から秀吉と気心が知れていた千利休だった・・・と話は続きます。秀吉によって歴史の表舞台に引き出された利休はまた、秀吉の天下統一の影の立役者ともなったのです。補欠同士だった2人が、代表同士になり、共存共栄の末、終には宿命の対決へ・・・!?(この辺は古今東西の殿方たちが、みな大っ好きなクダリですね!)
さて講演では、『食文化に関して異常なまでに潔癖な日本文化に、この時代に突如として「回し飲み」を作法とする「濃茶」が生まれた背景はなんだったか?』についても触れました。
「英国のエリザベス女王でも、マイ・スプーンやマイ・フォークはない。洗ったら誰のものでもなく使い回す。しかし日本は古来より、自分の箸、自分の弁当箱・・・というように、食文化に関して異常なまでに潔癖だった。それがなぜ、一碗からの回し飲みなどという、奇異な形式を突如生み出したのか・・・。それは当時、自由貿易港だった堺で取り入れられ盛んだったキリスト教のミサからヒントを得ている、一種のイニシエーションなのではないか。政治的、経済的な協議の席上に、このイニシエーションを加えることにこそ意味があった・・・」と。濃茶の仲になることは、契ることであり、血と肉を分けた同胞の証という訳です。
キリスト教弾圧の歴史を経た日本国内には、当時のキリスト教関係資料はおろか、歴史からエピソードまでも一掃されています。しかし当時の宣教師たちは、ヴァチカンに大量のレポートを送り続けていたそうです。国内になくても、海外には日本の状況を示す資料も残って埋もれているのです。現代になって、研究者たちの熱意があって、ようやくその真相が明らかになるかも知れません。今後の展開も楽しみです。
講演会後には、軽いカクテル・パーティーがあり、ピンチョス料理とカナッペ、プチケーキで交流会がありました。幸運にも千宗守宗匠とご一緒に記念撮影。右は寺崎夫人と、ハウス食品の浦添財団の理事長様と。
それにしても、パレスホテルにくるたび、故松本澄江先生(俳句の師匠)を思い出します。ああ、俳句、作らなくてはね(^o^;
by soukou-suzuki | 2007-09-24 01:28 | 茶味禅味俳味一味
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