私と母とが所属する俳句結社、「風の道」の主宰、松本澄江先生が亡くなったのは今年の弥生一日のことだった。先生の生涯のフィナーレを飾るように今年の桜は早めに咲き、例年よりも長く咲き誇り、それでもやがて散り去った。西湖のほとりに先生が植樹した桜は、どんな様子で咲いて散ったのか。
新緑滴る卯月の終わり(4月28日)に、パレス・ホテルにて「松本澄江を偲ぶ会」が行われた。「紙の櫻」や「西施櫻」など、先生の句集に「桜」の文字が多く登場する。今年の桜を見ていたら、師はなんと詠んだだろうか……、いや今こそ天上で何と詠んでいるだろう……、そんな思いにふけりながら、まだ八重桜の散り敷く公園を横切って、職場のある二重橋前からパレス・ホテルへと、木下闇をつたって一人歩いた。途中、純白のハナミズキが、蒼穹に向って堂々と十字架を掲げていた。 澄江先生は虚子を敬い極楽俳句をまっとうした句歴であったが、桜を称え、花を愛しながらも、時には花と競いもした鮮烈な女流の一生だったと想像する。自らの生き方を噴水にも例えられたことを一際感慨深く思いながら噴水公園を右手に歩く。 噴水の捨て身に落ちて高あがり 澄江 先生が居ないのが淋しい……。そう直接的な感情表現をすれば、先生は怒るだろう。「感情を文字で表現にしてはいけない、風景の中にそれを感じて俳句に詠み込むのです。風景に塗りこめるのです。」と繰り返し教えられた。しかし、この清々しいほどの「悲しみの無い淋しさ」はどう表現すべきなのか、今の私に俳聖は降臨しない。 森羅万象の中に、女流「澄江」は息づいている。ハナミズキにも、木下闇にも、噴水にも、柳にも、濠の緑水にも師は宿る。そこには喜びが溢れていて、いつでも師と会話できる気がする。妖精のように、そこらじゅうに澄江は満ちている。 それでも淋しいのはなぜか? それは自然の中に思い起こす師の言葉には、もはや一滴のく『毒』も無いことかも知れない。 癖、灰汁、毒…そうした、人間こそ持つことができる屈折が、時折プリズムのように妖しげに巧妙に胸の隙間に切り込んでくる……それを味わえないと思うと、無性に淋しくなるのかも知れない。 「ひかりさん、私の生涯は小説そのものでしたよ」 「ひかりさん、私も燃えるような恋をしましたよ」 「ひかりさん、私も戦いましたよ」 耳に木魂するのは俳人としての清らかな言葉じゃない。ぶつかりながら歩き、歩きながら泣き、泣きながらも極楽俳句を詠みつづけた一女流の、自分の人生そのものを愛して止まない自己愛と自己賛歌の言葉だ。それらはエゴを超越して人間の性への博愛でもある。その波動は生命の終わりとともに全て大気中に気化し、蒸留されて濃さを増し、時を待ち、ある瞬間に私の周囲から噴き出して周囲に満ち満ちてくる。 女流澄江は、自らの感情を増幅させ、発露させ、一線を踏み越え、その証として痛みを自己の体で受けとめる。溢れ出す血を眺めつつ自分自身を突き放し、孤高の天空から眺めやり、冷淡なまでにたった17文字の中に自分を切り取って、事も無げにそれを他人の前に放り出す。師が、私に気付け気付と攻め立てたのは苦痛を通り越した快楽なのか。その秘密の花園を自力で探し出し、パンドラの函を開ける日が私にも来るのだろうか……。深夜の真っ白な時間に沈み込みながら、師に授かった短冊の一句を眺めやる。 火蛾狂う壁に掲げしゴッホの絵 澄江
by soukou-suzuki
| 2006-06-05 00:10
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