音楽座ミュージカル「七つの人形の恋物語」を見て

午後、休みをもらって、テアトル銀座へ。
音楽座ミュージカルの「LOVE OF SEVEN DOLLS」(七つの人形の恋物語)(原作:ポール・ギャリコ)を見に行きました。23列目ながら、真正面センターの席。初め見る演目でしたが、後半のたたみかけと物語の深さ、心の仕組み、人の弱さ、と同時に、人が誰しも持っている真実の愛を見出す天与の力などを、巧みで涙をぽろぽろ、ぽろ、と合計8粒くらい落としました。(え、少ない?お化粧を忘れたので崩せなかったのです…--;)

主人公は、祖母に育てられたのち、誰にも愛されず、敬われず、社会のどん底を歩き疲れ、絶望して川面を眺める少女は、「蠅」という意味のムーシュとあだ名で呼ばれるマレル・ギュイゼック。
そんな彼女を救ったのは、幼少期に自分の母親に捨てられたトラウマから、人間とは付き合えない、自分とも向き合えず、人形遣いでありながら、凶暴性が表出するキャプテン・コック、実名はミシェル・ペエロ。
彼が捕虜時代に作った7人の個性あふれる人形がこの舞台の主な登場人物となり、絶望した少女に愛情と信頼と夢を与える。
一方で、徐々に極端になるキャプテン・コックのムーシュへの暴力と支配。辱めを受けるたびに強まるプテンへの憎しみが、彼女の人形への愛情を強めるというゆがんだ共依存の関係に発展していく過程で、皮肉にも人形劇団は人気を博していく。
まるで人間相手のように人形たちと付き合うムーシュそのものが、観客の心を魅了し、劇団は大劇場で公演するようになる。しかしムーシュは、「愛情と憎しみは、一つの心には仕舞いきれない」とキャプテン・コックとの決別を決意する。
ジプシー舞踊団の青年バロットは、マイノリティーと迫害に抑圧されながらも、団員を家族としてアメリカへわたる夢を持つヒーローで、彼はムーシュへの愛を打ち明け一緒に行こうと誘う。
初めての純粋な恋愛に満たされるムーシュ。一方、愛する人形たちとの生活を断ち切ることに苦悶する。
しかし、人形の動作、言葉を通じて発露されていたのは、実は人形遣いのキャプテン・コック、孤独なミシェルの心の叫びであり、ムーシュへの愛情に他ならないのだった。
人生の決断を迫られるさなか、戦況が悪化し、選択肢は外圧で狭められていく……。

以上、初見の私の要約ですのでかなり偏っているでしょうが、ご紹介まで。

幼少期のトラウマから「多重人格化した」一人の男と、愛する力を与えられながらも現実社会で絶望し続ける女。
愛情を持てば、与えても得られない飢餓感に襲われ、日々絶望を繰り返す。愛情を持たなければ憎しみを糧に生きる日々の地獄…。
たとえ相手が人形であっても、隣人を愛して生きることでしか、人は夢を描くことはできないのですね。人形だととくにゆがんだ構図に見えますが、案外、日常生活でも起きている現象ですね。隣人が愛犬だったり、子といがむ一方で孫への溺愛だったり、親友と呼ぶものへの忠誠に十字架を掲げたり。

それにしても、いつもながら、音楽座が取り上げる素材に驚かされます。
数ある物語の中から、あえてこの一作を取り上げ、小説の行間を演出し、登場人物の心の襞に光を当てる…。陰に光を当てたら陰でなくなってしまいそうなところを、セリフというスポットライトを避けて踊りや音楽で醸すのも巧み。
舞台を作るというのは、果てしない挑戦であり、観客への信頼であります。高いところ(舞台)から、こう真っ向に愛情と信頼を表現されますと、こちらも受け止め方を考え直します。(^^;
音楽座の、失敗を恐れないその勇気に敬服します。

戦争という時代、マイノリティーという不遇、個人のトラウマ、劣等感、貧困、日常的な屈辱…。
不幸の様子を見つけ出すのは容易な環境なのかもしれない。
しかし人間は、結局、幸せの種をいくつ見つけたか、人の幸せの種を社会にいくつ蒔くことができたかで心の充足を得る生き物なのです。

隣人をまっすぐ愛すること。いま、近くにいるという「巡り合わせ」に秘められた意味に、愚鈍になってはいけないということでしょうか。

通りすがりの人に惜しまず命綱を投げること。意味があって縁がある者と寄り添っているように、通り過ぎる人にも自分の存在は意味があることに気付くこと、でしょうか。

この舞台のラストシーンに、一期一会と連鎖が表現されています。
結局、いまに敏感に、いまの自分にできることを日々し続けることしか、自分自身の「魂の呼吸」を安らかにする手はないみたいです。

そういえば、ちょうど一年ほど前、シャーマンがいるという店に連れて行かれた。
私は人生の過渡期にあり(当時そう思っていた)、こんがらがった糸を理論的にほどこうと必死にもがいていた。一方で、理論を武器にすべきかどうかということ自体に迷いがあり、気持ちのながれるままに身を任せたい欲求も自覚していた。そうしないから終わらないのではないかという自暴自棄も備えていた。
名誉、利益、自由、美学…、解決の座標軸はどこにもなく、また、どこにでもあった。
自分らしさなど、考え出したら崩壊する幻だと気付き始めてもいた。
隣人でも家族でもなく、「自分のことだけ考えなさい」と言われるたびに、「自分」がなんなのか分からなくなっていく気がした。

別にシャーマンに相談するでもなく、私は彼女をじっと見つめていたが、目があったので何か言わなくてはと思い、こう言った。

「今、人生の分岐点に立っていて…」

「人生に分岐点でない日はないわよ」

そういって「あはは」と優しく笑ったあと、そのまま目をそらさずに、

「でもあなたは大丈夫。そうでしょう?」
と静かにゆっくり言った。

どっちにいっても、自分の人生に変わりはない。大切なのは、選んだ道ではなく、人生そのもの。通りすぎた道を惜しんでも、分岐を悔やんでも、私の「いま」は豊かにならない。ずっと「いま」の連続だけで成り立っているのが一生だから。

あれから一年。
一聴衆となって、しばし自分自身の人生のハンドルから手を離し、ただ傍観者でいることを許される舞台鑑賞は明らかに余暇だ。
舞台に涙して、おいしい肴に合掌して、いま目の前にいる相手に心から感謝するとき、ふとその日のことを思い出していた。

追伸:大好きな安中淳也さんはバロット役。ジプシーの踊りでも光っていました♪
by soukou-suzuki | 2010-08-03 22:40 | ザッツ★エンターテイメント!
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